kanehen

金属をたたいてつくる人 の忘備録です

松本と村上春樹

松本に行ってきた。
東屋の朝




前に行った時期が思い出せないから、たぶん1年以上行っていなかったのだと思う。電車で出かけると、特急しなので行くか鈍行で行くかの選択肢がある。しかし、妊婦時代につわりでしなので盛大に吐いた記憶が未だに鮮明で、行きは鈍行で2時間半ほどかけて行った。

時間があるのはわかっていたので前の日に図書館に行ったが、図書整理日で借りられず、しかたなく滅多にいかない市内の本屋に行って、しかたなく村上春樹の「職業として小説家」が文庫になっていたので買った。(と、いうことでいつもよりほんのり文章が春樹っぽいような)

1泊して、帰りはもうなんだかとにかく早く家に帰り着きたかったので、特急しなので帰った。1時間35分程で、ちょっとだけ酔っているような不快感があったがどうにか無事帰ってくることができた。(追記:中津川はJR東海塩尻以北?はJR東日本であるからスイカなどのICカードが使えないっていうのが納得いかん。僻地を不便にするなんてひどい。)

その往復のほとんどでちょうど1冊本が読めた。昔、河合隼雄さんを敬愛し熟読していた時期があり、その流れで村上春樹の本は出たら機会があれば読む程度だけれども、この本は何かをつくる人、という意味でとても興味深く、面白く、そして自分を省みた。

勝手に少し引用する。
〜〜〜〜〜
僕の考えによれば、ということですが、特定の表現者を「オリジナルである」と呼ぶためには、基本的に次のような条件が満たされていなくてはなりません。

⑴ ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイル(サウンドなり文体なりフォルムなり色彩なり)を有している。ちょっと見れば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。
⑵ そのスタイルを、自らの力でヴァージョン・アップできなくてはならない。時間の経過とともにそのスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に止まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。
⑶ その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなくてはならない。あるいは構成の表現者の豊かな引用源とならなくてはならない。
〜〜〜〜〜村上春樹著「職業として小説家」より引用
この前後にもこの条件についての文章があり、この条件に興味があった方は本を読むと良いと思う。⑶のサイキってなんだ?と、思いつつ、今、自分がどこを目指すべきかが揺らいでいる自分としては(こんなことを書くのもまずいかなぁと思いつつ、別に隠してもいないし)とても、とても響いたわけです。

他にもいくつもほぇ〜と思ったり、膝を打つ勢いで納得できたりすることがかいてあったのだけど、引用は面倒なのでこの辺でやめておく。さすが言葉の仕事をしている人だなぁと思いつつ、さて、私も日々をコツコツ生きてゆこうと思ったりしました。

松本滞在は私にとってセンチメンタルな記憶の中での特別な場所であり、非日常の極みであり、そしてそこから日常が拡がってゆく思いの集約のようなものでした。ま、自分でも何言っているのか解りませんが、それはいつかつくるものに反映してゆくのです、私は叩いてつくる人なので。

 
妙に暖かい雨の日、真味糖「生」を頂きながら。