kanehen

金属をたたいてつくる人 の忘備録です

遠い記憶

浪人時代だろうか、一時期古本屋でクリーム色のイラスト入り背表紙の講談社現代新書や、波の柄の岩波新書とか、まぁその頃はとにかく目に付いた古本を数冊買っては読むというのをジャンル問わず繰り返していたから、その「目に付く」というのが比較的ビジュアルに偏った記憶で残っていて、今となっては内容はあまり覚えていない。

そしていつの間にか、自分の傾向がわかり趣味嗜好で本を選ぶようになり、新書の類はよほど好きな作家のものでもあっても手に取らなくなって久しい。たぶん、薄すぎてすぐ読み終わってしまい、そのあと読み返す事も少ないというのもあるだろうし、あまりに直接的、センセーショナルなタイトルに、読んだような気になってしまうからと言うのもあるかもしれない。まぁ、とにかく、今我が家の本棚にはほとんど新書は無い。

そんな私が、珍しく新書の、それも社会学政治学?の本を読んだ。

<平成>の正体、<平成>を6つのキーワードで読み解く、「ポスト工業化」「ネオリベラリズム」「格差社会」「ポスト冷戦」「五五体制の終焉」「日常の政治」副題には、なぜこの社会は機能不全に陥ったのか、とある。

芸術、美術も外側からの数値化、分析はなかなか客観的に、平たく明快にすることはできないけれど、政治学もどうやらそれは同じようだ。もちろん経済学や統計学なども全く関係ないわけではないだろうから、数字で現れる部分もないはずはない。だけれど、それは美術品の金額という数字=価値であり芸術性の高さ、ではないことと、たぶん変わりが無い。そういう類の数値化しにくい事を学術として、言語を重ね、過去の研究を踏まえて書くと、どうしても独特の言い回しになるので、普段からその系の本を読んでいない人間からするととても読みにくい。

それから、私が好んで読む本は、「私」が大事なんだな、と読んでいて気がついた。政治学の本で「私」を語っても仕方がないのかもしれないけれど、何か壮大な社会について俯瞰して語っているような、概念と概念を戦わせているような、雲をも掴むかのようなマクロな話であって、私が入り込む余地を探すのに難儀した。

それでも、なんとか読みきったのはこの本の著者を知っているからなのだけど。知っていると言っても子供の頃の話。夏休みに家族で父の実家へ帰省して、いつも挨拶に行く親類の家があった。その家は確か男の子が3人兄弟で、彼らは白目が輝いて見えるほどに、びっくりするほど真っ黒に日焼けして素足にビーチサンダルを履き、近くを流れる河をどこまでも泳いでいけそうだった。当時関東暮らしだった私には、なかなか衝撃的な黒さだった。私の同級生の誰よりも黒かったと思う。まぁ、それしか彼について覚えていない。

今、私はその親類が住んでいた街に住んで子育てをしている。我が子は関東暮らしのいとこ達に比べて確かに夏は真っ黒になる。この本の著者で遠い記憶の彼であるところの藤井達夫さんは、今は関東に暮らしているらしい。不思議な縁だ、関東育ちが地方に住むのは物好きだからだが、地方の優秀な人が関東に出て行って、戻ってこない事は残念ながらよくある事だ。

本書は、<平成>を読み解きつつ、悲痛な面持ちで未来を見つめる。同年代として、それらは間違いなく今の姿であると、認識した。未来を思うと、自分の無力さに苛立ちを隠しようがない。陳腐だろうと何だろうと、今は変わらないが、未来は変わると唱えるしかない。できるだけ遠くを見て、日々暮らしてゆくしかない。