kanehen

金属をたたいてつくる人 の忘備録です

9月

昨日だと思うけれど、ツイッターで見かけた言葉。土井善晴さんが、新潮の「波」で連載しているらしく、そこからの引用のようなのだけど、それ、元あるのかな。と、思いつつも、言葉がずっと私の中で響いている。

 

《民藝では、美を追いません。追いかけると、美は逃げていくと言うのです。夢中で仕事をすると、美は後から追いかけてくるというのです》

 

 「民藝では」と断っているけれど、私にとって、それは、もう正に、普遍的真実の一つとしか思えない。美は追いかけるものではない、ただ後から追いかけてくる。

スプーンをつくっている時も、トレイをつくっている時も、もちろん救い易さや手に持った感じとか、用途としての部分を満たす必要があったけれど、だからと言ってその用途を満たせば完成かというと、それだけでは無いと感じていた。

手でつくり、素材を感じる、その心地の良さだったり、ほんの少しのアールや切れ端のビビった線や叩きのばされた具合のよさを、ほんとうに大事に思っていた。そうした一つ一つの部分的な思いがひとかたまりになると、ほんの少し美しいかなと、思えたものだった。

モビールなんて、皿やコップと違い、一見道具ではないかのように思うだろうけれど、私は空間を観るための、風を感じるための、呼吸をしっかりとする為の、そういった、つまりは人の暮らしに役立つ道具としてつくっている。(だからモビールも民藝だ!と、主張したいわけでは無い、まぁそういう区別はどうでもいい)

これまでの経験上、その心地よさは素人さんには(感じる方はいるだろうけれど)見えにくいし、同業者でも感性の個性というか、人それぞれで、結果用途は同じでも違ったモノが生まれる。似て非なる。

ここひと月程、10月の個展の事をずーっと考えていて、手がなかなか動かなくて困っていたのだけど、初めてモビールだけで構成する予定で、まぁ、端的に言うと、 ARTの高尚な感じに勘違いした自分が渦巻いていたみたいだ。美しさとは!みたいに。

だから、この文章を読んで、ああ、そうだった、美しいものを、人が作ろうと思って作るなんて、なんて傲慢だったんだと。そんな大層な私ではない。私はただ、つくればいいんだ、ただ、その先に美があったら嬉しい。

 

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ということで、今朝も涼しいうちにせっせとブルーベリージャムをつくりました。今回は1.5kgのブルーベリーでちょうど新りんごの季節になったので、1個りんごも刻んで入れて、酸味が弱かったのでレモン汁もチョイ足して、美味しくできたと思う。ジャムを煮た鍋肌を水でさらって、ジュースで飲むのがちょっとしたご褒美。

ジャムも片付いたし、すっきりしたので色々よかった。