kanehen

金属をたたいてつくる人 の忘備録です

幸せな記憶

叔母が亡くなった。10年ほど前の足の違和感からはじまり、進行性の難病と判明し、車椅子を使うようになってしばらくして一番下のおば夫婦と同居、徐々に寝たきりで会話もままならないの生活、そして24時間の介護が必要となり、施設へ入所した。時々は顔を見に行っていたけれど、忙しさにかまけてなかなか行けず、そうこうしているうちにコロナ禍となりさらに足が遠のいた。

8月半ば、医師の判断で施設への面会が許された。それは、看取りが近いという意味で、久々に会う叔母は少し痩せていたけれど、目の光は変わらず、そして、いつまでもそのままなんじゃ無いかと錯覚させた。けれど、9月8日に亡くなった。79歳だった。

私の子供時代は家族旅行といえば、盆と正月の帰省だった。私は田舎が好きで、大人になっても何度も祖母と叔母の家に行った。家事は祖母がきりもりし、叔母は役場で働く、叔母は大黒柱で祖母の夫のようだった。事実、叔母は生涯独身で、フーテンの寅さんのように晩年になるまで村にいなかった祖父(叔母の父)の代わりだったのだと思う。

2003年、私は勤めを辞めてかねへんの仕事をするために、祖母と叔母が住んでいた長野県木曽郡大桑村に移り住んだ。三竹屋というのが屋号で、村で挨拶するときには三竹屋のしおりですが、と言えば相分かった、となることが多かった。私が村で知り合いになった人は必ず叔母の知り合いだったので、忘れん坊の私はすぐ名前を忘れては叔母に聞いた。

叔母はものすごく記憶力が良かった。名前以外にも色々聞いては「そんなことも知らんのか?」と言いながらいつも教えてくれた。音楽も大好きでコラースに参加したり、箏を弾いたり、コンサートを聴きに行ったり、茶道や華道なども嗜んでいた。いつも色々な本を読んでいて、面白いとすすめ合った。植物にも詳しく、道々生えている草木についてもよく教えてくれた。

フットワークが軽く、畑では、野菜や花を沢山植えて、わざわざ松本までジャーマンアイリスの苗を買いに出かけることもあった。国内外行きたいところをみつけては友人たちと出かけていた。私も村のイベントによく誘ってもらった。村民登山で御嶽山に登ったこともあった。牛の放牧地にワラビ取りに行ったり、一緒にカヌーに乗ったりもした。いく先々の昔の話も興味深かった。

定年で役場を辞めてから、地域の役などを務めつつ、祖母に代わり家のことをするようになった叔母。料理でもなんでも熱心だった。正月にはとちの実を拾ってアクを抜いて作る栃餅やこしあんは手間がかかったが楽しみだった。祖母が倒れた時、叔母は淡々とできる限りの介護をして、看取った。はじめての一人暮らしだと、笑って言っていた。

祖母が亡くなる前、私が急に借り家を出なくてはならなくて同居した時期もあったが、もろもろ合わせて8年間同じ村に住んでいたことになる。それとは別につわりで大変な時に2ヶ月ほどは再び同居させてもらった。有形無形にいつもいつも助けてもらった。一応若者として力仕事やパソコン関係など少しは役に立っていたと思いたい。

結婚で私が村を出てしばらく後、叔母の病気が解ってから、何を思っていたのかわからない。いつも本当に必要なことしか話さない、思慮深く思いやりのある人だった。叔母の人生を思うと、その時代に、女性が生きることのやるせなさを感じずにはいられない。だけれど、それを全て解った上で、木曽に生きて、日々を豊かに生き切ったとも思う。

あの美しい山々と1日と同じ雲の無い空の下で暮らし、季節の草木花を愛でて、山や畑の実りを戴き、冬の日は暖かな春を待ち、春には夏の日差しを想って畑を耕して、秋には食べきれないほどの収穫、冬は雪の不便に文句を言いながらも工夫して暮らす。高校を出て村役場で働きながら、たくさんの趣味や仕事の仲間を持って、心やすい隣近所で助け合う。本当に尊敬すべき人。

亡くなってから、写真を見返していて、思いのほか叔母の写真が少なかった。叔母に会うことは私にとっては特別ではなかったから、写真を撮ろうと思わなかったんだと気がついた。こうして、叔母が亡くなり、改めて叔母との日々を思い出すと、派手なイベントなど無いけれど、まるで桃源郷のように楽しく幸せな記憶ばかり思い起こされる。

同じ時は2度と無い、あの日々を過ごさせてもらったことを感謝して、叔母の冥福を祈ります。玖美子おばさん、ありがとう。

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