kanehen

金属をたたいてつくる人 の忘備録です

アマリリス

3月の頭にどうも体調が思わしくないと他県に住む義父母から連絡があり、夫兄妹があれこれと動いているさなか、3月末に義父、4月末に義母が永眠した。ちらほら不調の話は聞いていたけれど、ひと月違いで同じ斎場に2回も行くとはさすがに想像していなかった。怒涛の春だった。

思い返すと、義父母にはほんとうに大事にしていただいた。産前泊まりに行った時には、昼間から布団が用意されていた。いつも上げ膳据え膳で、甘いすき焼きをお腹いっぱい戴くのが定番だった。娘が産まれてからは目に入れても痛くないほどの可愛がりっぷりで、他の従兄弟達とは行ったからと一緒にあちこち連れて行って出かけたり、季節の果物を持ってきてくれたり、いつも娘のわがままをニコニコ笑顔で聞いてくれていた。

年に数回しか会わなかったけれど、だからこそかもしれないが、嫌な思い出は一つもない。コロナ禍で持病のこともあり、さらに会う機会が減っていて、体調の変化に万全の対応が出来なかったことが心残りでもある。けれど、人の世話になることが苦手だった義父は、本当にできる限りの努力をして、いよいよ施設に世話になるかという頃に、自宅で愛する妻と娘に看取られたと聞いて、なんと鮮やかな逝き方だと驚いた。

義母も、夫を見送った後、施設で思うように過ごす時間がひと月ほどあった事が少しでも心を軽くできたのだったらと今は思う。この世代の女性の抗えない習わしなのだろうけれど、いつも誰かの世話をして過ごした母は、見舞いに人が行くことよりも、1人で施設の人に世話をされることを最後の日々の過ごし方として望んだと聞いた。

母は多趣味で、花が好きな人だった。子育てがひと段落してからは伊勢型紙や編み物、服作りなど、あれこれ手を動かしてつくっていたそうだ。会う度に、花柄の新しい自作のセットアップを着こなしていたし、娘にもたくさんの服を作ってくれた。夫が私の仕事に理解を示してくれたのは、きっとそんな母親を見ていたからだと思っている。

知らせを聞いてから、久々に孫一同、親族で集まって食事会をしたり、いわゆる心の準備はしてあったと思う。それでも今年の春がこんなふうに過ごす春だと思いもよらず、右往左往しているうちにあっという間に2人ともいなくなってしまった。ちゃんとお葬式も出たし、見送ったのだけど、いまいち亡くなった実感がないような気もする。

お父さんは夫が小さい頃から旅行に行くたびに集合写真を撮る人で、会うたびに写真を撮って、注釈入りのアルバムにしてプレゼントしてくれた。その習慣の無い私は不思議だったのだけど、今は貴重な10数年の記録となってほんとうに良い習慣だと思う。もう少ししたら、ゆっくり写真を見返したい。

我が家の庭で、大輪のアマリリスが咲き始めました。義実家よりも我が家は気温が低いので、枯らさないように気をつけて育てたいと思います。